四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎池田澄子の俳句鑑賞(『池田澄子百句』『シリーズ自句自解Ⅰベスト100池田澄子』より)①

〇『『池田澄子百句』 坪内 稔典+中之島5編集 (創風社出版、2014)

『池田澄子百句』は坪内稔典と船団メンバーと関係者5人の編集。

 発表の句集5冊、空の庭(1988年)、いつしか人に生まれて(1993年)、ゆく舟(2000年)、たましいの話(2005年)、拝復(2011年)から編者によって厳選された100句について、船団メンバー関係者による鑑賞が付されている。

 各鑑賞は、句から触発されたエッセイの趣があり、可あり不可あり総じて可なりである。初出の句集名が明記されている。

 

 あとがきで坪内稔典は次のように書く。

《池田澄子が俳句に関心を持ったのは三十代のある日、そして俳句雑誌に初めて俳句を投じたのは一九七四年三十八歳の時だったという(本書掲載の「池田澄子略年譜」)

 そのときの句は、

 ★死ぬ気などなくて死に様おもう秋

であったというが、この句からいわゆる澄子の代表作、たとえば

    ★じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

 ★生きるの大好き冬のはじめが春に似て

   ★ピーマン切って中を明るくしてあげた

 までの距離は遠い。遠いというより、とてつもない飛躍を澄子は果たした、というべきだろうか。師と仰ぐ三橋敏雄との出会いやその他いろいろがあって、澄子は大きく跳んだ。そして、最初の句集『空の庭』を世にもたらしたのは、一九八八年、五十二歳の時であった。「死に様おもう」から「生きるの大好き」への変換、そこに澄子の大飛躍の秘密がある、と私は思っている。( 坪内稔典「あとがき」『池田澄子百句』)

 

 坪内が取り上げた代表三句の主語は「わたし」である。自句自解で「生き物の一例としての我を写生する」や「生きている存在」のひとつとしての自分を外から見て書くと述べている。

 そこに自己の生をはじめ、生きとし生きているものへのおおらかな慈しみがあり、決して大上段に振りかぶってでなく、変則的な視点やユーモアを伴い、軽やかに句をしたてあげている。

 その中で常に一貫しているのは、絶えず通念を疑い、物事を嘘偽りなくありのままに捉えようとする態度となろう。自明のものが、必ずしも自明であるとは限らない。人の思考というものが、如何に固定観念に捉われてしまいやすい性質のものであるか。そのことに池田澄子はどこまでも自覚的であるような気がする。

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※『シリーズ自句自解Ⅰベスト100池田澄子』の自句自解と、『池田澄子百句』 の読者の立場からの鑑賞を参照しつつ、いくつか印象に残った句から自分なりに述べてみる。

 ここでは、第一句集『空の庭』と第二句集『いつしか人に生まれて』からみていく。

 

▼第一句集『空の庭』(1988年)五二歳

 後記から:〈草や木や虫や水が、そこに在り、そこに生かされ生きていると同じ私の存在、その日常の断面を書きとめることによって、うれしくもつらい『在る』ということの不思議を表せないものかと思っています。(略)拙い二一四句の句集が、まだ知らぬこと、まだ知らぬ書き方に出会うための出発点になってくれることを切に願っています〉

 句集のタイトルになった句は「花火師に花火のあとの空の庭」。他に、「百日紅町内にまたお葬式」「秋たのし家鴨の足音たのし」「冬の闇見て見てこれ以上は見えぬ」など紹介。

 

★じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

 じゃんけんは単純に分別する折の手段だから、勝ち負けは偶発的である。その偶然の結果は遁れようのない運命を押し付けることもある。人に生まれようが蛍であろうが。

 自解で《これらの口語の俳句を作り始めた時、コレは俳句じゃないと総スカンを受けそうで少し怖かった。ところが「コレがオスミ調」と三橋敏雄先生は強く背を押した。》と述べる。

 

★合歓一木しばらくを咲き合うている

 合歓は淡紅の刷毛のような美しい花を開く。夜になると葉を閉じて眠ったようになるので、この名がある。

 自解で《合歓の花は不思議な形で、ぼ―っと在る。季節が来るとたくさん咲き合って散り合って種になり合う。------「合う」という言葉が好きである。人は一人では生きられず生き会っている。人も鳥も魚も草木も、偶然のように必然のように今を共に生き合う。愛し合い時に憎み合い死に消え合う。ほんのしばらくの時を。》と述べる。

 

★草いきれ振り向きて振り向かれけり

 リフレインが効果的な一句。中七を音便化しないことで、カ行Kの音が連続するのも効果的。

 この句の自解ではシンクロニシティーから類想類句問題に連想が飛び、吟行で師・三橋敏雄とわずか三音違いの、ほとんど同じ句を偶然作ってしまったエピソードが語られる。

 シンクロニシティーとは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では主に「共時性」と訳される。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。

 シンクロニシティーとは異なるが、いつの場合でも、見ている私と同時に見られている自分でもある。私は主体にもなるし、世の中から見たらほんの小さな一つの点・客体でもある。

 

★ピーマン切って中を明るくしてあげた

「してあげた」との表現に、人に対しては押し付けを感じることもある。食材になるピーマンの場合は親しみさえ感じる。台所仕事のポット出たささやきのような。

 自解で《こういう完全痴呆的な句を、もう一度作ってみたいと思うことがある。知性にも知識にも関係のない、主張も見栄もない句。

 そんなの簡単と思うけれど、案外出来ないものだ。出来ないとなると追い掛けたくなって、その時には既に作意や野心がめらめらしているので結局、理が通ってしまう。それにしてもこの句、小さな親切、大きな迷惑ってとこで、世のためにも人のためにも自分のイメージアップにもならない。でも、何故か私らしいような気がする。》と書く。

 

★生きるの大好き冬のはじめが春に似て

 自解で《我ながら溌溂としているときも確かにあって、また時に、ずいぶん生きたからもういいな、と思うときもあって、両方とも本当の私である。》と述べる。

 自分のなかにはいろいろな自分がいる。溌溂としているときもあり、鬱々としているときもある。毅然としたときもあるし、卑屈なときもある。いろいろな人格ファクターが散乱している。でも、それは全部「自分」である。そんな自分と付き合いながら生きていくのは面白い。嬉しいときは嬉しいとはっきり確かめて書く。それが長続きするかとは関係なしに。

 

 

▼第二句集『いつしか人に生まれて』(1993年)五七歳

「育たなくなれば大人ぞ春のくれ」の池田の自句自解では〈『歳をとるのが面白い』と書いたことがあった。二十年前のことだ。自分の加齢は、今も興味深く面白くもあるけれど、既に怖い気持の方が何倍も強い〉と述べられている。

 著者の五十代前半から後半にかけての句群には、日々の発見や半生への感懐を織り交ぜつつ、老いにさしかかる「今此処」を、いろいろな角度から句にしている。

 句集は「春風に此処はいやだとおもって居る」から始まり、「花よ花よと老若男女歳をとる」「産声の途方に暮れていたるなり」「いつしか人に生まれていたわ アナタも?」と続く。

 

★屠蘇散や夫は他人なので好き

 自解で《自分は一人しかいない。一心同体なんて面白くもないしあり得ない。自分以外は自分ではない。即ち他人。だからこそ、その存在が有難く嬉しい。共に生きることが当然ではないから、有難いのである。 夫は私をちゃんと他人と思っているかしら。》と書く。

 むろん他人すべてというわけではないが、縁あって身近に暮らしている夫は、共に生きることが当然ではない他人だから、その存在は有難い。

 屠蘇散は山椒・防風・肉桂などの薬用植物を調合した漢方薬。酒またはみりんに浸したものを、正月に邪気払いとして飲む。「屠蘇延命散」ともいう。

 

★腐(いた)みつつ桃のかたちをしていたり

 桃は傷つきやすく、賞味期間も短い。「いたみ」という言葉に、「痛み」ではなくルビを振って「腐み」の文字を使って、老いに向かう女の姿も連想させる。

 自解で《『現代俳句文庫・29』の解説文に谷川俊太郎さんが「老いに向かう女の姿をここに重ね合わせることは、もちろん一つの解釈に過ぎないが」と書いてくださっていて、確かに、この句に私はそのことを隠し含ませた。

 その上で、この句は桃の句。桃の有り様を描いた句。一つの現象は他と通い合う。暗喩はそこに生まれる。》と書く。

 

★育たなくなれば大人ぞ春のくれ

 自解で《我ながら溌溂としているときも確かにあって、また時に、ずいぶん生きたからもういいな、と思うときもあって、両方とも本当の私である。》と述べる。

《中城ふみ子の「生きておのれの無残を見んか」には、若くして死へ向かうことの恍惚とした優越感のようなものがあるが、なんの甘みもない老いて死ぬことの無残には、眼を瞑りたくなる。

 育って、育たなくなって、衰えてゆくその全てを、生きておのれの無残を見んか、と私は言えるか。》と書く。

 三歳未満の二人孫の育ちをみていると、「生きる」にずんずん春らしくなってくる様を感じる。

 

★想像のつく夜桜を見に来たわ 

 自解で《だってそうでしょう?------ 本当はこの世のモノ殆ど、とまでは言わないが、かなりは想像が付いている。想像を裏切らない桜を求めて毎年花を見に行くのである。------

 仁平勝が「コロンブスの卵」という題で、イケダはよく一句について聞かれると、「だってそうでしょう?」と言う、と書いていた。》と述べる。

 次のことも思う。脳神経学の最先端では意志が働くコンマ数秒前に、脳は既に動き出しているといわれている。つまり、意識は「無意識」である脳機能の後追いであると。

 わたしたちの暮らしで、純粋に初めて出会う・味わうことよりも、何らかの想像を働かせて後追いしていること多いのではないか。

 

★口紅つかう気力体力 寒いわ

 作者は《読んで下さる方は『気力体力』の次の空白で『ン』と息を止めていただきたい、------五七五という音調は、ひたすら信じて身を委ねていると、あまりの安心のせいで、ずんずん流れていってしまう。だから時に抵抗したくなる。抵抗のそれは、アクセントを持たせる異物でありながら、やはり確かに俳句でなければ嫌なわけで、そこが難しく苦労の為所で、その苦労が愉しい。》と分かち書きの意図を語っている。

 それにしても、大きくなった女性の人は大変だなと思う。私の妻がコロナ禍のマスクのおかげで、口紅にあまり気をかけなくていいのは助かると言っていた。

 

 

▼第三句集『ゆく舟』(2000年)六四歳

  句集は「考えると女で大人去年今年」で始まり、「南瓜に種おんなに為さぬ抱負あり」「良い月夜こころならずも腹がすく」「夕顔やまたも何かを食べねばならぬ」と生き物としての人を優しく句にする。

 この句集は三二九句のなかに十数句の戦争俳句がある。「路地に朝顔アメリカにエノラ・ゲイ」「TⅤ画面のバンザイ岬いつも夏」「八月十五日真幸く贅肉あり」「雁や父は海越えそれっきり」「皇居前広場や握れば雪は玉」などある。

 著者も父を戦争で失った恨みが書かせていると語っている。その恨みという強い言葉以上に強い思いが伝わってくる。

 

★青嵐神社があったので拝む

 青嵐とは青葉の茂るころに吹きわたるやや強い風。若々しく力強い感じがする季語である。それに吹かれながら青々と茂った樹々の奥にひっそりと静寂にたたずむ神社に、おもわず拝みたくなる。青嵐と神社の取り合わせに「動と静」の両極のエネルギーが交差する。

 自解で《「青嵐神社」とも読めるところが弱いかもしれない。摂津幸彦は堂々の立派な名前と錯覚させられるところが面白くもあったなどと句集評に書いてくださった。

 こういう場合少なくとも作者は、両方に読めることと、どちらを主と考えているかを、自覚していなければいけないだろう。》と述べる。

 

★青草をなるべく踏まぬように踏む

 踏青とは、春に新しく芽生えた青草を踏みながら野山に遊ぶことをいうが、「なるべく踏まぬように踏む」の心映えが印象的。

 何事もなるべく慎重に歩んでゆきたいものであるとの意も思う。人生も。

 自解で《踏まないように気を付けながら踏んでしまうことと、何も思わずに踏んでしまうことと違う、と思っていいものだろうか。------結果に対しての罪や責任は同じじゃないのか。

 我ながら思いがけずに加害者になってしまうことが、少なからずある。思いがけずどころか、気づかずに加害者になっていることも少なくないに違いないのだ。》と語る。

 

★TⅤ画面のバンザイ岬いつも夏

 自解で《毎年目にするあの画像。見なくても、思えば胸がどきどきしてくる、あの事実。------あの人に来なかった、その後の秋、それ以後に生きて私たち、毎年あの日をテレビで見る。》と述べる。

 日本からわずか三時間半でいけるサイパン島は透き通った海水とサンゴ礁に囲まれたリゾート地で一年中ほぼ夏の南の島。その北端にあるのがバンザイ岬。

 第二次世界大戦中には旧日本軍司令部が置かれ、1944年6月~7月にかけてアメリカ軍との激しい戦いにより、追い詰められた日本兵や現地の人たちが80メートル下の海に身を投げた岬。多くの身投げをした人たちが「天皇陛下、万歳!」「大日本帝国、万歳!」と言って死んでいったことから、この名前がつけられた。

 

★気がゆるむと騒ぐたましい寒月光(下)

 自解の中で作者は感情の主要次元の緊張と弛緩について《一つの弛緩が一つの緊張に繋がったり、その逆もあったりする。緊張は一方の何かを無いものとする。しかし本当に無になるわけではないから、気がゆるむと、待ってましたと主張を再開するのである。》という。

 感情は快・不快,興奮・鎮静,緊張・弛緩の3つの方向ないし次元をもち,あらゆる感情はこの三次元空間内の一点に定位できるとする説で,ドイツの心理学者 W.ブントが唱えた。しかし多くの心理学者はこの説に賛成せず,快・不快の一次元説をとる。

 弛緩というのは心のゆるむこと、だらしなくなること。気がゆるむと自分の主義主張が強くなる。「寒月光」は騒ぐたましいをきりりと冷ましてくれそうだ。

 

 ★坐せば野の此処はわが席鳥渡る

 坐ったら、野の此処は私の席になるのだな。この広い世界のたまたま坐る私を許容してくれる野の寛ぎ。そこに、この地を選んで渡ってきている鳥と、同質に感じられる楽しさ。

 自解で《「此処はわが席」と思いさえすれば、大地は全てを受け入れてくれると感じることが出来る。》と述べる。

 大地とは、「人間や万物をはぐくむものとしての土地」で、そこをいのちあるものは、何らの境界も設けないで、自由に根付き、楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか。

 

▼第四句集『たましいの話』(角川書店〈角川俳句叢書〉、2005年)六九歳

 あとがきに、《これから、私がどれだけの俳句を詠むことができるのか知るよしもないが、自分を眺めることで、人というものが何なのかを少しでも知りたい。この世の万象が何なのかをこの身に感じたい。万象の中で人間がどういう存在なのかを、俳句を書くことで知っていきたい。》と述べている。

 この間、二〇〇一年一二月一日、一九七七年に私淑を決め、後に師事をしてきた三橋敏雄が逝去された。その師を偲ぶ句も多く収められている。

 句集に「これからの冬の永さを畳の上」「敏雄逝き白泉忌すぎ三鬼の忌」「先生の逝去は一度夏百夜」などある。

 

★目覚めるといつも私が居て遺憾

 自解で《この句は、最も「遺憾」なものは何かと考えることから始まった。----耳にして違和感をもつ機会の多い言葉の一つである》と述べている。

 遺憾とは、一般には、期待通りではなく「不満だ」という意味で、期待したようにならずに、心残りに思うこと。残念であるという気持ちとともに相手への非難も含まれた言葉。

 イメージとして、私とは関係ありませんという意味合いを感じるが、ここは「私」が対象になっているのがアイロニカルである。

 私にとって熟睡のあと目覚めると、いつも「同じ自分」がいると思うのが不思議というか面白かった。

 私達の身体は、分子的に言うと日々刻々と入れ替わり続けているらしいが、意識としては変わらない自分がいる。意識」の特徴は「同じ」という「はたらき」である。寝て目が覚める。すると、「同じ自分」に戻ると「意識」する働きがある。毎日目を覚ますたびに、「わたしは一体誰なんだろうか?」とは思わない。常に、「同じ自分」に戻る。

 

★人類の旬(しゅん)の土偶のおっぱいよ

 自解で《あの土偶を見たのは随分前のことで、それからずっと何年もの間、あの土偶で一句作りたいと、時々思った。私の体全体が、いつ現れるか分からない「土偶」の句を待ち構えていた。》と述べる。

 そして『あさがや草紙』で《誰かが作った土偶が今、目の前にあることの不思議な気持ちが言葉にならないまま何年経っただろうか。------世の中に厭なニュースが飛び交う。人が人を騙す。人が人を殺す。人が地球を汚す。何故? とかなしんでいたら「人類の旬」の句が現われた》と書く。

 旬(しゅん)とは、物事を行なうのに最も適した時期。最も盛んな時期。

 土偶は縄文時代に作られ、日本各地から出土している土人形。乳房や妊婦をかたどったものが多いことから子孫繁栄、豊穣、再生を祈願するために作られたものと推定されているが本当の目的は現在も定かではない。そして、その多くが破壊されているのが最たる特徴。

 

★相談の結果今日から夏布団

 夫婦二人の生活が長いと、取り立ててじっくり話すことはあまりないが、季節の変化にたいする、身近な暮らしにまつわる洋服・かけぶとんの類は、どうするか話し合う。

 わたしの場合、「どちらでもいいよ」ということもあり、あなたの「どちらでもいいよ」は「やめたいのか、そうしたいのか」が分かり難いと言われたりする。

 自解で《折につけ思い出す俳句がある。自分の俳句なのに、思い出す句と、余り思い出さない句、それからきれいさっぱり忘れている句がある。

 掲句は毎年必ず思い出す。相談の結果、今日から夏布団にするという日が必ずあるからだ。自分で思い出して、よくまあ、こんなつまらないことを俳句にしたものだと、ちょっと自分を褒めてあげる。》と述べている。

 

★先生ありがとうございました冬日ひとつ

「先生ありがとうございました」という呼び掛けから始まる。今までの全てに対する感謝ゆえの過去形である。

 自解で《先生が亡くなったのは二〇〇一年一二月一日。-----

 何故か、先生は絶命された。私はお礼を申し上げる以外には何も考えられず、「ありがとうございました」と小さく声にして深くお辞儀をした。------

 気が付くと、美しい月の夜になっていた》と語る。

 お礼を申し上げる以外に何も考えられなかったその想いは「冬日ひとつ」に託された。(つづく)

※初出2021-09-16記