四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎書評:『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む。』

〇池田澄子が金子兜太100句を選び、一句ずつについて作者と選者・評者のふたりで語り合うという趣向の『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』を、面白く読む。

 

 ほぼ時間軸に沿って句が並んでいるので、伝記的な意味での兜太の生き方、来し方にふれる。

 池田の兜太への愛情は、深いけれども盲目的ではなく、適度な距離がある。

 

 28句目の他では取り上げることのない「火星汚れて会議のあとの窓を飾る」のところで兜太はいう。

 

 金子:この本はさっきからだいぶユニークな感じがありますね。受け答えの中で、今までの私の句の鑑賞じゃあ出てこないこと随分あります。

 池田:あはは、淘汰の専門家ではない、素人の鉄面皮、強みですね。

 金子:というか、素直って言うかな、素直、いいと思いますね。だから私も釣られて、いろいろな名前が出てくる。今までそういう鑑賞文ないです。ユニークだ。私も差し支えない範囲で、名前も出します。思い出にもなりますし。

 

 上記の対話にみられる、澄子・兜太の感性、他人作者の句の鑑賞、句づくりの視点など、素直な意見の交換が最後まで続いて、二人の楽しそうな様子も伺え、読んでいて気持ちの良さが伝わってくる。

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 幾つか印象の濃い句の鑑賞や二人の交流を見ていく。

6:★木曾のなあ木曾の炭馬並び糞る 『少年』 

 池田:この「木曾のなあ」はねえ・・・。やられました。

 金子:これが兵隊に行く前の最後の句。大学は繰り上げ卒業で、一人旅をした。牧ひでをが名古屋にいて、そこに泊まって、それから木曾に一人では入って、帰って来て、そこから兵隊にいったんです。その時の句でしたね。

 池田:その意味でも作者は忘れがたいですね。それが、もう見事な兜太節。

 金子:うん、そうなんだ。

 池田:兜太節の完成がね、早いですね。

 金子:うん、早い。

 池田:ですから“体がそうなんですね、”きっとね。

 金子:秩父音頭のような民謡ばかり聞いて来たというのがあるんでしょうなあ。

 池田:「木曾のなあ」とこれを持ってこられたのがとても癪です。この詠み方、もう誰も出来ないじゃないですか。

 金子:出来ないでしょうなあ。これは自慢なんですねえ。“ちょうど”冬なのにもかかわらず広場で木曾節やってたんです、私も行ってみたんです。翌朝、駅に向かっていたら、「炭馬」(炭を運ぶ馬)がだーと並んでいた。これから仕事に行くっていうんです。これは実景です。

 山本健吉が「兜太の俳句は、結局イデオロギーであって詩になっていない、俳句の良さをぶち壊してしまう」と否定的であったが、この一句だけ褒めたというエピソードが語られる。

 

11:★水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 『金子兜太句集』

 遺骨収集の話が続き、その後に発言がある。

 金子:生々しく死んだ連中を置いて帰ってるから。------この墓碑が生きた人間と思っている。殺された人間たちのことを思っている。

 池田:痛烈ですね。茨木のり子に「木の実」という詩がありますね。戦死した日本兵の髑髏を傍にあった木の実が引っかけて伸びて大木になって、高いところの木の実に見えたのは、日本兵の髑髏だったという。

 金子:うーん、これは絶対、落としちゃ困る句なんです。

 池田:これがあって、その後があるんですからね。

 金子:全部ある。現在までがある。

 

13:★朝日けぶる手中の蚕妻に示す 『少年』

 昭和二十二年、兜太は日本銀行に復職し、四月に塩谷みな子(俳号は皆子)と結婚した。

「新婚旅行など望めない時期なので、毎日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっていた。その途中、農家の蚕屋に立ち寄ったときの句」(「自作ノート」より)と回想している。

 ここで、兜太の恋愛観、結婚観が語られる。

「私の場合は一種の略奪結婚型で、自分で恋愛ってことがないんです。女性を愛して獲得してという、残忍なところが。つまり女性を略奪して自分のものにする、という興味がうんとあるんです。」とあり、「貴女(澄子)は笑うかもしれないけど、女房にしても子供にしても、弱きものは労わるという考え方です。だから女房に対する感覚も、この弱きものは絶対守らないかんって考えてきたんです。」

 

19:★原爆の街停電の林檎つかむ 『少年』

 高名な「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は洩れ、この句を池田が選んだ。この2句について、兜太と池田のやりとりのなかで、池田が次のように言う。

「原爆許すまじ」って反対のしようがないんです、。「そうでしょうか」とか言えないんです。絶対に正しいところが、生意気ですが私は物足らないのです。

 

21:★暗闇の下山くちびるをぶ厚くし 『少年』 

 金子:福島支店から神戸へ転勤になった、その福島支店最後の時の句です。------送別会を安達太良でやった。一人ですけどね、山をぐんぐんと鬱屈し気負った心情で下っていった。その時の心情の高まりです。

 池田:ああ、心情、思いを具体で見せた。映像化した。

 金子:なにか鬱屈した、挑む思い、なにかに。次の生活に挑む気持ちで山を降りてきた。一人で、たったったっと。貴女の言ったその状態。

 池田:平らな道じゃ、そうは感じませんね。たったったっと下るので体の重みがどんつどんつどんつて、唇がだんだん分厚くなっちゃうという感じ。なにくそって感じ。

 池田:それで、神戸にいらして、本当に開けましたよねえ。

 金子:だからその、偶然ねえ、関西前衛の中に飛び込んじやった。あれ俺にとっちや運がよかったんですねえ。------私はねえ、運がいい男だと思ってるんですよ。戦争中に死ななかったしなあ。このタイミングも非堂に運がよかったですねえ。あの関西前衛熱気がなかったら、俺はやめてたかもしれない。違った道になってたかもしれない。

 池田:そこで本当に金子兜太が出来上がったということでしょう?気持ちの上でも。

 金子:その通りです。その通りです。

 

26:★朝はじまる海へ突込む鷗の死 『金子兜太句集』

 池田:普通ですと「突込む鷗の死」には、夜という設定もありますね。一つの世界として夜の海に鴎が突っ込むというイメージもなくはない。それは終焉の景です。そうじゃなくて「朝はじまる」っていうのが----、いいんですね。

 金子:そうです。人生これから始まるっていう気持ちも込めて言っている。そんな観念的なことを別にしてね。風景としても朝がいいです。夜明け。

 池田:「朝はじまる」ということは一度夜を経て、これからが始まるということですよね。

 金子:朝が明けてくる、風景としても綺麗ですよね。

 池田:綺麗です。一度死んで、光の中に生まれる。

 

 一九五六年七月に発表した神戸港での作。腹を決めて「俳句専念」を決意した、転機の句である。その時期、兜太は献身した組合運動が、一九五〇年のレッドパージのあおりを受けて頓挫し、以後十年におよぶ地方支店生活(福島、神戸、長崎)を余儀なくされていた。

 兜太は『わが戦後俳句史』のなかで、この句の背景と動機について、「神戸港の空にも防波堤にもたくさんの鷗がいて、ときどき海に突込んでは魚をくわえてきました。私はそれを見ながら、トラック島の珊瑚の海に突込んで散華した零戦搭乗員の姿をおもい浮かべて、〈死んで生きる〉とつぶやいていたものでした」と述べている。

 

 

31:★華麗な墓原女陰あらわに村眠り 『金子兜太句集』

 池田:私これは、さむくなるっていうか、震えが来るほどすきです。

 金子:やっぱり貴女、感覚がおもしろいなあ。

 池田:すきですね・・・。この「淫ら」うん、「淫ら」が。何て言ったらいいんですか。墓だけが華麗なんですねえ。貧しさの伴う哀しい見栄、でしょうか。

 金子:そうそう、まさにそのとおりです。

 池田:これはもう本当に凄い句ですねえ。貧しさがこの「淫ら」を生き生きさせるんでしょう? これしか生きがいがないみたいなね、そこまで言うと言い過ぎですけど。        一句は何も言っていないから説得力が増します。

 

33:★果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 『金子兜太句集』

 金子:これは割合に山口誓子が「多」としてくれた句です。あの人は褒めないからね、めったに。それが、多としてくれた。

 池田:そうですか。のちの『詩経國風』にも「果樹園」が出てきます。「果樹園に肉体じわじわずきずき老ゆ」です。「俺の孤島」っていうのはとっても若くて、「孤島」と言いながら華麗です。こちらは「老ゆ」です。「じわじわずきずき」に濃い実感が感じられます。

 この二句の繋がりを面白く思いました。じわじわずきずき老います。人体も果実も。

 金子:これはまあ説明のような句ですね。果物を想像してもらえれば。じわじわずきずき老いていくっていう感じ。

 

35:★霧の村石を放(ほ)うらば父母散らん   『句集・蜿蜿』

 池田:私はこの「父母散らん」の「父母」が、作者自身の父母から始まっているとは思いますが、作者だけの父母、または妻の方も加えて四人だけが父母ではなくて、先祖代々というか、村じゅうの累代の父母が思われます。霧の村ですし、人間の形がはっきりしていなくて、もう霧の粒子みたいにね、累代の父母が、ぼーーっと立ち込めている。霧の粒子が無数の父母たちそのもの。そんなイメージが、私。

 金子:それはそれでいいんじゃないですか。それはこっちとしちゃあ望外の喜びです。そこまで読んでもらえれば。

 池田:二人、自分の父母だけじゃなくって。自分の父母だけだと石投げても当たる率も低いし。もう霧の粒子が全部累代の父母であると読むと、本当に、石投げたらばーっと散っていってしまいそうな感じがします。

 金子:うんうん、それはもう池田流の読みでいいですよ。否定する理由はまったくないな。

 

42:★涙なし蝶かんかんと触れ合いて 『暗緑地誌』                               

 金子:これはねえ、この庭です。(金子宅で対談はなされた)これは入れてもらいたい句、自分では好きな句なんです。

 池田:「蝶かんかん」は空気が乾燥しているということでしょうか。春の野のひらひらした蝶ではなくて、暑い日の、中空と言うのでしょうか、そんな景が思われます。抒情を振り切ろうとしている気迫が感じられますね。「涙なし」をどう読んだらいいのか、そこが難しいですが、どう読んでもよさそうで、そこが読者の判断が分かれるところかと思います。

 

45:★谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな 『暗緑地誌』

 池田:「歓喜」ですね。この「歓喜」は、うんと広い歓喜。例えば鯉も「歓喜」でしょ。揉み合っている「歓喜」、揺れる水自身の歓喜もありますね。同じ夜の「歓喜」もある。

 金子:男女の目合いの歓喜。両方。それを感ずる。これは大岡信がねえ、朝日のあれ、「折々のうた」で鑑賞してくれました。貴女の言ったとおりのこと。

 池田:「歓喜」っていうのはすごく生のことばなんですが、この鯉がこうゆうふうに、水が動くように動いている、水を揺らしながら鯉が揺れている。それがぼーっと目にうかぶので、この「歓喜」がすごく生々しい、言葉だけじゃなくって。そして人は人で同じ夜に。

 金子:命っていうのを感ずる。私は得意の句ですね「彎曲」とこの句だな。             影像って問われたときに、この二つの句をいつも俺は挙げるんだけどね。              これは俺の得意の映像だと。この色気がいいやなあ。エロスがいいんだ。

 池田・はい、それも土俗的な、スマートでないエロス。

 金子・そうそうそうそう。土臭いエロス。それは俺の好みのとこだな。

 

56:★梅咲いて庭中に青鮫が来ている 『遊牧集

 金子:ちょうど寒紅梅が後半の時期に入って、白梅や普通の紅梅が咲き出す。重なる時期があるんですよ。その時期が春の盛り上がるという感じですね。

 その頃から既にずっと庭全体が、朝なんか特に青ざめているんです。海の底みたいな感じ。青っぽい空気ですね。こう春の気が立ち込めているというか。要するに、春のいのちが訪れたというか、そんな感じになるんですね。それで朝起きてヒョイと見てね、青鮫が泳いでいる、というような感覚を持ったんですよ。それですぐできた句なんですけどね。

 私の場合だと、見たままを、そのまま丁寧に書くということよりも、それを見ることによって感じたもの、その感じたものからいろんなことを想像して書く、というふうなことがほとんどなんですね。想像の中にうそが入ったり、ほんとが入ったりしていい加減なんですけどね。それが自分では面白いんで。

 

69:★白犬が吾を追い越す地球上 『皆之』

 池田:ちょっとこれあざといといって言えば、あざといかも知れないけれど。

 金子:このへんみんな貴女独特の選び方ですよ、これは面白い。選ばれてみると面白いですね、自分の句だが。こんな句があったんだよなあ。

 池田:この「地球上」の大袈裟が愉快です。それでいて本当に、あくまでも何をしようが地球上ですよね。これがあざとくて嫌だという人が居るかも知れないと思うんです、俳人の中にはね。でもやっぱり、白犬も吾も、他の生き物も今生きているのは、逃れようもなく地球上だという感じがしました。

 金子:そうそうそうそうそう。白犬が印象的でしょう? 

 池田:はい、白犬がスタスタスタスタ歩いて追い越していってるって。そして後姿になる。

 

94:★合歓の花君と別れてうろつくよ 

 金子:出来たときが面白いんですよ。福井からの帰り、琵琶湖のそばを列車が通るときに妙にうーっとうねるようなとこがあるんですな。その時にこの句がふっと出来た。だから「うろつくよ」はその時の感覚。合歓の花があったかどうかそれは別問題。あったとしちゃったんですが。
 池田:これはね、私『日常』を最初に一読したときに、泣きたいほどじんときました。よく男がここまで素直に書いて下さったと、主婦を代表して御礼が言いたいぐらいです。

 

▼金子兜太は、2018年2月20日に98歳で亡くなる。その後、さまざまな方が追悼を寄せている。ここで池田澄子の追悼文を見る。

 

「合歓の花君と別れてうろつくよ」金子兜太 評者: 池田澄子
《「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」の第二、第三の人生の始まり、「霧の村石を投うらば父母散らん」の産土への思い。「熊飢えたり柿がつがつと食うて撃たれ」の現代の地球との対峙。その中での極めて個人的日常の思い、極めて正直な大の男の情が、掲句にある。

 少し前までの主題にはなかった、それまではあまり見せなかった、普通の一人の男の極めて個人的な思いの吐露。恥ずかしげもなく呟かれた個人的妻恋の呟きが、そのことをもって個人を離れる。俳人としての、若くはない大の男の、普遍的な姿を見せる。
 平凡とも言えるそのことによって、個人の思いは個を離れる。呟きが作品になる。妻に先立たれて「うろつく」男は世に多いだろうけれど、「君と別れてうろつくよ」と呟いた男は多くはない。例え「うろつく」日々であっても、そのことを言葉に移すことを思いつかない。それほどには意識しないのが普通の男。
 「合歓の花」という言葉を付け加えることで、個人の妻恋いの情が、作品としてこの世に定着し、残った。》
(『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より)

※初出2021-10-08記