四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎原爆俳句(広島忌、松尾あつゆき日記など)

〇原爆忌俳句大会のこと

 俳句を通して非核・平和を訴える「原爆忌全国俳句大会」(実行委員会主催、毎日新聞京都支局など後援)が2021年9月の第55回大会を最後に、幕を下ろすことになった。

 

 半世紀以上にわたり、17文字に平和への思いを刻んできたが、投句者の減少や実行委の高齢化などから、苦渋の決断が下された。広島・長崎への原爆投下から、2021年で76年目のこと。

 

 一方、長崎原爆忌平和祈念俳句大会は一堂に会しての開催は中止されたが、第68回を迎え、今年第69回も開催された。

 

〇広島忌俳句から。

 1945年8月6日は広島に、8月9日は長崎に原子爆弾が投下されて多くの人が亡くなったことを慰霊する日。「広島忌」は立秋前なので夏の季語、「長崎忌」は立秋後なので秋の季語になる。

・ヒロシマに遺したまゝの十九の眼 相原左義長

・原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太

・語り継ぐ五才の記憶原爆忌 末廣紀惠子

・広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

・人も蟻も雀も犬も原爆忌 藤松遊子

・雀しきりに砂を浴び原爆忌 鷹羽狩行

・原爆忌海一滴もそこなはず  宮坂静生

・原爆忌一つ吊輪に数多の手  山崎ひさを

・赤く蒼く黄色く黒く戦死せり 渡辺白泉

 

・魔の六日九日死者ら怯え立つ 佐藤鬼房

《八月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)※2000年記》(※「増殖する俳句歳時記」より)

 

・天に星地には吾子の目広島忌 

 付記:上句は2015年の第33回中国地区現代俳句大会で「高野ムツオ賞」をいただき、とても嬉しかった思いがあります。 

 

〇『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』から。

 松尾は、長崎の原爆で妻と3人の子どもたちを失い、その体験を句にする。本書は生き残った長女を看病しながら2人で生活した10カ月間をまとめたもの。

「8月10日に帰りついた自宅跡には、横たわる妻の横で死んだ2人の幼子が。この日、さらに長男が生き絶えたが、3人の兄弟の遺体を炎天下に並べておくしかすべがなかったそうです。家族を失ったあまりの寂しさに、何度も自死を考えながら、句を作ることで生きた…と、本人は綴っています。」

・こときれし子をそばに、木も家もなく明けてくる

・すべなし地に置けば子にむらがる蝿

・まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる

・炎天、妻に火をつけて水のむ

・炎天、子のいまわの水をさがしにゆく

・あわれ七ヶ月のいのちの、はなびらのような骨かな

・なにもかもなくした手に四まいの爆死証明

・今はもうたびびととして長崎の石だたみ秋の日

※『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』(平田周編纂、長崎新聞新書、2012)

※初出2020-08-17