四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎「存問」としての戦火俳句(ETV特集「戦火のホトトギス」より)

〇昨年8月21日に放映されたETV特集「戦火のホトトギス」をネットで再度みる。

 明治30年創刊された俳句雑誌「ホトトギス」は、今では一つの俳句雑誌だが、戦前は俳句に関心ある人のもっとも大きな月刊誌だった。

 

 現在1500号を越えているそうだが、1945年の6月~9月号が抜けて4か月の休刊があり、戦時中の誌面は日本が広げた膨大な戦地からの投句で埋められている。

 

 人々は自分のおかれている生活や心情を17音に表現して、生きる存在価値を確かめようとしていたのが伺える。

 

 その作品の俳号から投稿者何人かに焦点をあてて、遺族や関係の深い方々への取材を通して、17文字に託した市井の人々の戦中戦後を描く。

 

 番組内で稲畑汀子が存問(=俳句を通して、それぞれの安否を問う会話)に言及していた。

 わたしはこの番組のキーワードの一つは存問だと思う。

 

 存問とは安否を問い、慰問するの意。俳句では慶賀、弔意、またはある出来事についての感懐を詠むこと。広義にはその土地の風向、歴史など一切に対する親愛の情をも含む。

 

 高濱虚子は『虚子俳話』の中で「日常の存問が即ち俳句である」と述べている。日常の挨拶のみならず、自然界のものへの挨拶、神様や仏様にたいする神聖な挨拶を含むという。

 

 私たちはいろいろものに生かされながら、生きている。そこで出会う自然風土や人々と挨拶を交わし対話することによって、自己と他の存在を確かめ合うことができる。その交流の感懐はそこにいない人にも伝播していく。

 

 戦時中に詠まれた俳句作品から、時を超えて伝わってくるものがある。

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▼俳号・敬二(本名・石田忠二)

 1932年、29歳で三井物産の経営するゴム園の医者としてシンガポールに滞在し、その後現地にて開業、現地の人々の診療にもあたった。奥さんからの投稿もある。

 戦後福島県双葉町で医院を開業、息子さんの代になっていたが、原発事故でその医院は半廃墟となっていた。

 

★椰子浜にコレラ防疫陣を張る 昭南(シンガポール) 敬二

★見送りに来て蝶々や船の上

★讃美歌の野辺の送りやゴム落葉

★水の家窓みなあけて夜のまどい

★マラリアにかかり帰朝をのばしおり

★雲の峰動く大軍征くごとく

 

▼俳号・陶子(竹下陶子)

 昭和18年、20歳で陸軍歩兵隊に入隊した竹下さんは、中支で泥にまみれ、飢えと病に仲間が倒れる行軍の中、大けがをした上司に付き添って部隊を離れ、命をつないだという。

 

★クリークをたつきの民に梅咲きぬ

★敵の山味方の山と夕焼けぬ

 

 俳句仲間だった方が、竹下さんが持っていた昭和19年5月号の数ページの句の切り抜きを見ながら語った。

「みな厳しい戦地にいながら、こうして俳句で、自分の存在を表現できた・・・これがまさに「存問」なんです!」

 

 戦地から奥さんにも句を送っていた。

★我も妹もコスモスが好き手折らばや

 

 竹下さんは、戦争が終わっても、ずっと戦争の句を作り続けた。

★霾れる塹壕にゐて動かれず (92歳)

★敵前の歩哨に立ちて明け易し(92歳)

★菊の香や教育勅語に育ちたる(93歳)

★この国の未知には触れず春惜しむ

 

▼俳号・平松小いとゞ(本名・平松一郎)

 小いとゞは、和歌山県新宮市出身。父・俳号竈馬の影響下、10歳から俳句を始めた。その後、京都帝大法学部に進み、俳句会に所属した。父の望み通り、判事を目指して勉強していたが、昭和17年26歳の時、陸軍少尉として中国北部に出征、激しい戦闘を繰り返し、昭和19年6月河南省の山岳戦で、小いとどは・頭に銃弾を受け、命を落とした。

 

★動員の夜はしづかに牡丹雪 小いとゞ

★雁帰り臣がいのちは明日知らず

★銀漢も泣け我が部下の骨拾ふ

★紙白く書き残すべき手あたたむ

 

 小いとゞ12歳の時の句が父の句と並び載せられている。

★野遊につつじを掘ってきたりけり 小いとど

★春雨や杉苗積める繋ぎ舟  竈馬 

 

 父・竈馬さんは熊野で林業を営む人だった。

★戦死報また出して読む端居かな 竈馬

 歳まで生きた竈馬は、戦争のことや息子話はいっさいせず、黙々と林業に励んだ。

★子に生きて又孫に生き杉を植う 竈馬

 

 実家の庭に小いとゞの句碑がある。

★水仙黄母に似し妻もたまほし 小いとゞ

 

※「平松小いとゞ」について、『ウィキペディア(Wikipedia)』に記録されている。

 

▼細木大三郎

 大三郎は昭和16年、京大医学部を卒業後、巡洋艦青葉に軍医として乗り込む。

 昭和16年大三郎は京大医学部を卒業。昭和17年 大三郎が乗る青葉は珊瑚海海戦に参加。昭和19年夏 特務艦 神威に軍医長として乗船した。

 

★世をおほふいくさの中へ卒業す

★艦傾ぎメスとる汗の吾も傾ぐ

★敵艦あはれ銀河の空へ燃ゆるとき

★驟雨去りにわかに近し敵の島

★銀漢に祈りてはなつ魚雷なる

★スコールの響にひたりいのちあり

 

 大三郎は三度従軍した。最後の船は、特務艦 神威。7月に妻に頭髪を送り、9月には、60機の大空襲、27日にはついに米軍戦艦砲撃で100名死亡、10月、神威は満身創痍で門司港にたどり着いた。そこで出会ったのは、臆病だという ごうごうの非難と母の訃報だ。

★常夏のうみは母なき子にあをし(自筆の短冊)

 

 帰国後、高知県の小さな漁師町に 医院を開いた大三郎。

 

★霰降る今日は港の医師(くすし)われ 

★音もなき銀河と遠き漁火と

 

 お孫さんに、昭和21年 元旦に写した一枚と自筆の句を見せる。大三郎と妻、そしてまだ赤ん坊であったお孫さんの母。そこに俳句が添えられている。

★友ら死なせ母港の秋の灯に還る 大三郎

 

 大三郎の俳句が載った戦時中の「ホトトギス」を読みながらお孫さんは語る。

《やっぱ 戦争って つらいですね・・・。

【★銀漢に祈りてはなつ魚雷なる】→怖いですねこれ 当たれって思って放つんですよね。 敵の方に。はぁー

【★スコールの響にひたりいのちあり】→いつ死んでもおかしくない状況で毎日毎日 夕方に スコールが来て、それでも「ああ 今 生きてる」っていうのを詠んだ句ですかね。

 戦時中の俳句を見て 初めて過酷さをほんとに知りました》

 

 大三郎は、熊野の小いとゞが、その活躍がうらやましいと書いた京大俳句会の同期だ。でも、もう友の句が雑誌に載ることはなかった。

★熱燗やいくさせし身汝と我

 

 戦後の大三郎を知る人が語ったように、「遺言というか、書かずにはおれなかったもの」だったからだろう。

         ☆

 

参照:『平松小いとゞ全集』谷口智行編(邑書林、2020)より

《新宮を去る頃同窓の細木大三郎氏が巻頭を取ったときには『大三郎やりをつたな。僕もいざ出陣といふときには必ず巻頭だよ』と父竃馬に言っていたが、翌年四月号の巻頭を知らずに逝った小いとゞ。

 

 細木大三郎「ホトトギス」連続巻頭作品

 ◉「ホトトギス」昭和十七年八月号

征く海路酷暑と敵といづれぞや

暁の虹夕の虹や海を護る

スコールの去りつゝ虹の育ちつゝ

 

 ◉「ホトトギス」昭和十七年九月号

月涼し八重の潮路を征く御艦

常夏の海は母なき子にあをし

カヌーなる親子に椰子の島昏れて》