四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎まど・みちおの『続・全詩集』の戦争協力詩について

〇過去に起こったことを現在に活かすことについて。

 知人のブログに、まど・みちおの戦争協力詩に触れていて、思うことがあり調べてみた。

 2015年11月戦争協力詩を含む「続 まど・みちお全詩集」(理論社、2015・9月)の刊行を期して、報道各社、関係者などが記事にしている。その中のいくつかみていく。

 

【まど・みちおさん 生涯悔やんだ戦争協力「全詩集」完結(毎日新聞2015年11月25日大阪夕刊)

「童謡「ぞうさん」で知られ、2014年に104歳で死去した詩人まど・みちおさんの「続 まど・みちお全詩集」(理論社)が刊行された。1992年出版の「全詩集」の続編。太平洋戦争中に高揚する意識をつづった「戦争協力詩」3編も収録し、「過去」と正面から向き合おうとした、まどさんらの遺志を受け継いでいる。

 

 責任編集者だった故伊藤英治さんから今回の続編を引き継いだ市河紀子さんは「まどさんは小さな生命一つ一つを見つめた詩人。戦争協力詩が投げ掛ける問いは重い」と話す。】

【「続編に盛り込まれた3編は42年に書いた「たたかいの春を迎えて」「てのひら頌歌(しょうか)」「妻」。「妻」では「石に囓(かじ)りついても勝たねばならないのだよ」と、妻に語り掛ける場面を表現した。

 

「たたかいの春を迎えて」は、旧日本軍を力強く走る汽車になぞらえ「忠勇や 義烈たちの あたたかな音楽もひびくであろう」と兵隊を鼓舞。「てのひら頌歌」では「ちかって 至尊へ あわせたてまつる」と、皇居の方角に向けてかしわ手を打つ際に湧き上がる感情の高まりを表現した。〔共同〕】

 

 それについて、まどさんの言葉として、「私は臆病な人間です。また戦争が起こったら、同じ失敗を繰り返す気がします。決して大きなことなど言えぬ、弱い人間なんだという目で、自分をいつも見ていたい(私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間です。……インチキぶりを世にさらすことで、私を恕して頂こうと考えました)」

 

 また、まどさんの長男石田京さん(75)によると、本人は単に悲嘆するのではなく、見つけてもらって「ありがたい」と語っていたという。

 概ね同じような要旨で紹介されていて、まど・みちおさんの誠実さと、国民的に愛されているのを感じる。

 

 このことから、いくつかのことを考えてみる。

・私のような平凡な多くの人たちは、社会や時代の状況に揺さぶられながら、考え、感じていることが多い。それらに距離をおいて、自分の意思を貫いていくのは、それほど容易ではないということ。特に戦時中という非常事態、あるいは、ある種の理念で覆われた組織に属している場合、それらの力に翻弄されながら言動を行う傾向が出てしまう。

 

・現在の立ちどころから過去を見ていくとき、随分酷い状況だったとか、自分は何であんな馬鹿なことをしていたのか、など振り返ったりすることもあるが、それを学びほぐしていき、そのように動いていた元の要因を深く探り、乗り越えていく力を身に着けていかないと、同じようなことを繰り返しかねない。

 

・過去を振り返るとき、現在の自分の見方、感じ方でみていき、良いふうにとろうと、悪くとろうと、後悔の念があろうと、物語化していくのは避けられないことである。そのような自覚のもとで、見ていかないと、ゆがんだものになる。自覚があっても「ずれ」はなくならないが。

 

・先の戦争に協力をし、何らかの形で文を発表した文人で、そのことにきちんと向き合った人は少ないといわれている。そんな中で、まどさんの「戦争協力詩」を『続全詩集』に取り入れた自責の念が、多くの人に共鳴を与えたこと。もう一つは、先の戦争体験のある人たちが、最近のきなくさい時勢の動きに敏感になっていること。戦後生まれの私には、もう一つその観点が弱いと思っている。

 

・過去の起ったことを複眼的に見ていくときに、大事に思うこと。

  • その時の時代状況に、いくつかの資料、体験談も含め、想像的にでも、その時代に身を置くこと。
  • 現在の自分の見方、感じ方はどこまでも一面的で、小さくてもいいので疑問符をつけておくこと。
  • 第3者の視点で、①と②の架け橋をかけている私(他者としての)を想定すること。

 難しいことだと思うが、次に紹介する吉野弘にはそのようなことを感じた 

 

【参照資料】

※原文にあたることが必要だが、見つけられなかったので、インターネット「まど・みちお全詩集 – 黙翁日録」から、『全詩集』刊行時の詩人・吉野弘の所感を転写した。

 

『まど・みちお全詩集』に寄せて  吉野弘

(略)さて、全詩集に収録された二篇の”戦争協力詩”と、これについての、まどさんの言葉「あとがきにかえて」は胸に沁みるものです。

 どのような事情で戦争協力詩を書き、また、記憶になかったというこの詩がどのようにして全詩集に収録されたかについては、「あとがきにかえて」に譲ることにしますが、私の胸に沁みたのは、まどさんがこの詩を敢えて全詩集に収めたこと、御自身の過去を隠蔽なさらなかったことす。

 まどさんはこの文章の中で御自身のことを<私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間です。>と書き、更に<この作品を公表して、私のインチキぶりを世にさらすことで、私を恕して頂こうと考えました。>とも記しています。なんとも厳しい自己処断です。

 まどさんは続けてこう記しています。

〈なぜ私が戦争協力詩を書いたのか、またそれがなぜ記憶になかったのか、を私なりに考えてみます。まずなぜ書いたか、ですが、私が無知で、ぐうたらで、臆病だったことを別にすれば、たぶん私は非常に昂っていたのだろうと思います。〉

 このあとに昂奮の原因が回顧されているのですが、その一は、真珠湾攻撃と宣戦布告、その二は、まどさんの師・北原白秋の死(昭和十七年十一月)、その三は、まどさん御自身が召集されたこと(昭和十八年一月)で、丁度その頃、ガダルカナル島の攻防で日本軍は絶望的な状態にあり、まどさんが入隊して前線行きとなれば明日の生命も知れぬという状況だった。このような状況の中で<前線へ赴く臆病な私を臆病な私が、慰め、説得し、励まそうとしたのではなかろうか。>と回想されています。

 もう一つ決定的だったのは、師・白秋が他界する前「大東亜戦争・少国民詩集」の刊行を企画し、まどさんも誘いを受けていたことのようです。白秋他界後に刊行された『少国民のための「大東亜戦争詩」北原白秋氏に捧ぐ』の「あとがき」から推察して、二篇の戦争協力詩を書いたのは、多分、白秋の死から、まどさんの入隊までの二ヵ月余りの間のこと、とも回想されています。

 また、これを書いた記憶がなぜ無かったかについては<このように昂り昂った中での作詩というのは、おそらく即興の書流しで、そのために書いたという印象が希薄だったのではなかろうか。>と述べ、御自身を「ひどい健忘症」と規定し<人間は自分に都合の悪いことはすぐに忘れるといいますが、それもあったのかと思われます。>と、痛烈な自己批評の矢を御自身に放っておられ、まどさんの傷の深さが思われました。全詩集で、このような、まどさんの傷の痛みに出会うとは予想もしていませんでしたので、敢えて所感を記した次第です。  (略)(季刊『飛ぶ教室』四五号/一九九三年二月)

※初出2016-02-07