日々彦・詩歌句とともに

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎『石牟礼道子全句集 泣きなが原』から

◎『石牟礼道子全句集 泣きなが原』から(藤原書店、2015)・日々彦選句

さくらさくらわが不知火はひかり凪

花ふぶき生死のはては知らざりき 

いかならむ命の色や花狂い

女童や花恋う声が今際にて 

花びらも蝶も猫の相手して

 

毒死列島身悶えしつつ野辺の花

わが耳のねむれる貝に春の潮

睡蓮や地表の耳となりにけり

けし一輪かざして連れゆく白い象を

坂道をゆく夢亡母とはだしにて 

 

笛の音すわが玄郷へゆくほかなし

鬼女ひとりいて後ろむき 彼岸花

薄原分けて舟来るひとつ目姫乗せて

 

前の世のわれかもしれず薄野にて

ひとときの世を紅葉せよ舞の影

 

にんげんはもういやとふくろうと居る

ひとつ目の月のぼり尾花ヶ原ふぶき

わが酔えば花のようなる雪月夜  

おもかげや泣きなが原の夕茜

わが干支は魚花みみず猫その他

 

祈るべき天とおもえど天の病む

そこゆけば逢魔ヶ原ぞ 姫ふりかえれ

童んべの神々うたう水の声     

われひとり闇をだきて悶絶す

山の上に黒牛どのと石ひとつ

※『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(藤原書店、2015)

 

〇毎日新聞「余禄」2018年2月11日

〈「高漂浪(たかされ)き」とは何か。「狐がついたり、木の芽どきになると脳にうちあがるものたちが、月夜の晩に舟を漕ぎ出したかどうかして、浦の岩の陰に出没したり、舟霊さんとあそんでいてもどらぬことをいう」▲『苦海浄土』の一節という。魂が身からさまよい出て諸霊と交わって戻らないさまをいう方言らしい。著者の石牟礼道子さんは自分をこの高漂浪きだと言っていた。水俣病の患者らの話に引き寄せられて始まったその魂の漂泊だった▲「こやつぁ、ものいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす」。胎児性水俣病で口のきけぬ少年の祖父はそう語っていた。水俣病で亡くなった人、苦しみを語れぬ人との魂の交感を言葉に紡いできた石牟礼さんの旅である▲海と山のおりなす自然と暮らしの中で狐や舟霊、人から抜けた魂が行き交ったかつての水俣だ。その小宇宙を人間ともども破壊した近代産業の罪科を、過去の世界からさまよい出た魂のまなざしにより描き出した「苦海浄土」だった▲ものが言えないからこそ魂は深くなる。惨苦を生きる人にこそ聖なるものが宿る。深い悲しみから生まれる美しさがある--「物が豊かになれば幸せになる」という近代文明の傲慢と恐ろしさを胸に染み入らせた石牟礼さんの文業だ▲東日本大震災この方その文学が再認識されたのも、富や力の左右する世界しか見えぬ昨今の精神の貧血状態からの揺り戻しではないか。石牟礼さんの旅立って行ったあの世が古き良き水俣に似ていればいい。〉

 

◎石牟礼道子(全句集 「泣きなが原」+未収録の27句など))

〇現代俳句コラム(「現代俳句協会」)

祈るべき天とおもえど天の病む 石牟礼道子

「1950年代を発端とするミナマタ、そして2011年のフクシマ。このふたつの東西の土地は60年の時を経ていま、共震している」――石牟礼道子との対話『なみだふるはな』(2012年3月刊)の序にある藤原新也の言葉である。

 さる7月31日、国の水俣病被害者救済法に基づく救済策の申請が締め切られた。石牟礼氏は珍しくテレビのインタビューに答えて、とつとつとせつせつと、ゆるやかに首を振りながら、この非情について語っていた。いてもたってもいられないという、静かな衝迫に満ちて。でも、詩人の言葉はどこにも届かない。でも、本当にどこにも届かないのだろうか。

 

 句集『天』は、四半世紀ほど前に、天籟俳句会の穴井太氏(1997年逝去)の手により刊行された。収載作品は41句。穴井氏の友人で画家の久住賢二氏の装画とともに、見開きに1句ずつ収められている。穴井氏は、掲句が、石牟礼氏の文章とともに、新聞(1973年8月1日、新聞名は不明)の学芸蘭に掲載されたときの感動を「句集縁起」と題した解題のなかで綴っている。この句に秘められた思いを述べた石牟礼氏の言葉を、いわば貴重な証言として、孫引きして紹介してみたい。

 

〈地中海のほとりが、ギリシャ古代国家の遺跡であるのと相似て、水俣・不知火の海と空は、現代国家の滅亡の端緒として、紺碧の色をいよいよ深くする。たぶんそして、地中海よりは、不知火・有明のほとりは、よりやさしくかれんなたたずまいにちがいない。〉〈そのような意味で、知られなかった東洋の僻村の不知火・有明の海と空の青さをいまこのときに見出して、霊感のおののきを感じるひとびとは、空とか海とか歴史とか、神々などというものは、どこにでもこのようにして、ついいましがたまで在ったのだということに気付くにちがいない。〉

 

 石牟礼氏の想いの果てが、やがて断念という万斛の想いを秘めながら、この句に結晶していったと穴井氏は言う。現代国家の滅亡の端緒として。何ときりきりとした言葉であろうか。同じ悲惨を繰り返しては……ならない、と、ひとり思う。

(出典:石牟礼道子句集『天』(昭和61年)評者: 堀之内長一 平成24年8月31日)

〇石牟礼道子はかつて短歌との訣別をしたらしいが、『苦海浄土』を経て俳句が大好きになったようだ。その短歌についての発言の記録がある。

 

〈短歌そのものについて、私にとってにがへしくもいとおしいのは、ともすればえたいの知れない詠嘆性だ。これは、でもこわい。短歌は結局、詠嘆にはじまり詠嘆に帰結するのではないかしらと云うしごく当り前のことに対する疑問、詩人の民族的権威をもって詠われた詠嘆の時代はもうすぎ去ったのか。(略)

 架空の小市民的団欒、それをもって芸術的であると思い込んでいた理科教室の標本箱の雲母のようにうすい幻想。永久に生活に根づくことのないサロンへの憧憬。そのような中間性から生れる限り短歌はついに文芸でしかあり得ない。

(「詠嘆へのわかれ」『南風』1959)より〉

 

・「人間がやることは、この先もあんまりよくなる可能性はないですか。」「あまりない。いや、いいこともあります。人間にも草にも花が咲く。徒花(あだばな)もありますけど。小さな雑草の花でもいいんです。花が咲く。花を咲かせて、自然に返って、次の世代に花の香りを残して。」『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(2015)所収。句集の解説から、上野千鶴子氏との対話を抜粋

 

※2020年1月8日の読売新聞に「石牟礼さん 未収録の27句」という見出しで、まだ句集にも載っていなかった俳句27句が発見された、というニュースが載っていた。

〇【石牟礼さん 未収録の27句】(2020年1月8日の読売新聞から)

 水俣病の悲劇を描いた「苦海浄土」で知られる作家、石牟礼道子さん()2018年に90歳で死去) が、40代から晩年にかけて詠んだ俳句27句が、遺品の日記やノートから確認された。全句集 (213句)には未収録で、専門家は「石牟礼文学の研究を補完する貴重な作品」と評価している。《全句集外 不知火海や母へ思い》

 

 石牟礼さんの執筆活動を支えた熊本市の思想史家、 渡辺京二さん(89 が)遺品を調査、200冊を超える日記やノート類の中から確認した。

 石牟礼さんは1970年頃から俳句誌などに寄稿を重ね、2015年に未発表作品を加えて「石牟礼道子全句集 なきなが原」が刊行されたが、今回の27句は含まれていない。

 27句のうち最も古いのは69年9月13日の

〈おとめ降りくる草のあいだの晩夏かな〉

 石牟礼さんはこの年「苦海浄土」を刊行し、水 俣病裁判の支援に携わっていたが、自然を素直に詠んだ句には多忙な現実を離れた静かな趣が感じられる。

 

〈わが海に入る陽昏しも虚空悲母〉

 は96年の、元日に詠まれた。俳人で熊本大名誉教授の岩岡中正さんによれば「かつて水俣病が発生した不知火海に沈む夕日は昏いけれども、その空に悲母観音の姿を感じる」という意味。岩岡さんは「水俣病に象徴される近代の堕落から救いと再生を願う、石牟礼さんの思想が端的に表現されている」と解説する。

 

〈いつもより柿食べており母恋ひし〉(07年12月)

 は亡き母を慕う句で、

〈初春やひとあしごとに地震くる〉(16年4月) 

 は熊本地震で被災した後に詠んだ。

 27句のほか、全句集収録句に類似した4句も確認された。

 

 渡辺さんは「石牟礼さんは、俳句を発表するためではなく、ひそかな楽しみとして作っていたようだが、どの句にも文学的なエッセーンスや独特な味わいが感じ取れる」と語る。 

 今回確認された俳句は2月上旬、弦書房 (福岡市)から出版される句集に収録される。

(以上)