日々彦・詩歌句とともに

主に俳句、付随して詩歌などの記録

折笠美秋についての覚書

〇折笠美秋についての覚書
・ 微笑が妻の慟哭 雪しんしん  

 『君なら蝶に』(昭61)所収。作者は新聞記者だった時に筋萎縮性側索硬化症にかかり、全身の筋肉が不随になり、人工呼吸器で命を保つようになる。目と口は動かせるが声は出せない状態で病院生活を送り俳句を作り続けた。句は夫人が書きとった。

 折笠美秋(1934-99)横須賀市生れ、俳人。早大卒、新聞記者勤務時に筋萎縮症発病、闘病生活を送る。「俳句評論」創刊同人。句集『君なら蝶に』『虎嘯記』等。
※参照 大岡信『新 折々のうた1』岩波新書、1994年。

 病院で寝たきりになった彼を奥さんが看病していた。奥さんは、本当はつらいのに、つらさを全然示さずに、寝ている彼にいつも微笑を絶やさなかった。ご主人である折笠にとっては、実は妻は慟哭しているのだとわかるのだが、「ありがとう」とも言えなくなってしまっていた。そんな折、病室の外には雪が降り積もっている。この句は『君なら蝶に』という奥さんをたたえる題の句集に所収されています。この句集から

 

・ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
・ 見えざれば霧の中では霧を見る
※参照 鶴見俊輔編『日本人のこころ』(対談大岡信)岩波書店、2001年

・ 紫陽花に百たびの雨百たびの色
・百合咲く頃逢いたる君よ今も百合の香
・山吹一重わが身ひらたくなりにけり

 

  二人が出会ったのは1959年5月、美秋が東京新聞の駆け出し記者で、智津子はハトバスに入社したてのガイドの卵で、山百合が美しかった頃である。美秋の一番好きな花は紫陽花。紫陽花を宇宙に見立てて妻とよく語り合ったそうである。晩年は、ほとんど動けない状態であったが花に託しての句はとても多い。

 

 ・腹いっぱいコスモス咲く夢枯らす夢
・夢ありや生きとし生けるものに雪
・八十八夜は雨歩けねば歩く夢

 

  芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は生涯が旅のごとくものであり、何かを求め歩き続けている孤高の姿を感じさせる。美秋は寝たきりの生活の中で精力的に俳句を作っていったのだが、1999年に亡くなるまでどんどん夢が広がっていく生涯であったような気がする。「腹いっぱい」の句は『死出の衣は』の8月15日敗戦日の項の掲載句である。

 

・雪うさぎ溶ける生きねば生きねばならぬ
・菜の花どきは子に帰りたし 帰っている
・動けぬにあらず動かぬ千年杉

 

 美秋の句は、せいいっぱい生きていこうとする生命力と、時間と空間を飛翔していく想像力と、自分と身の回りの家族だけではなく社会に開かれていく視線を感じさせる。

 

・抱き起こされて妻のぬくもり蘭の紅
・君の手が我が手一文字書くことも
・君在りて我ある日々やまたの秋

 

  折笠美秋は1985年の現代俳句協会賞を受賞した。1982年5月に筋萎縮性側索硬化症と診断されてから3年後のことであった。「抱き起こされて」の句を妻の智津子が書きとった頃は、アキ(美秋)は日ごとに身動きが不自由となり“抱き起こさ”ねばならないことが多くなり、智津子が最も難儀な時期であった。この後、アキの身体の方はより厳しくなっていくのだが、智津子の方もゆったり大きく受け止めていくようになる。俳句については、始めの頃、指示通り間違いないように書こうとするだけで作品を味わう余裕がなかったが、美秋にとってどんなに大切なものなのか理解するようになり、美秋の俳句が心の支えとなり、美秋と一体となって俳句を書きとるようになっていた。

 

 受賞に際して、17歳になった娘の美帆(ミミーMIMI)はパパに手紙を書いた。
「いつも、同じ堅さの布団の上で目覚め、同じ景色だけが目に映って、何度となく、まったく同じ御飯を口にして—-又同じ—-又同じ—-で一日が過ぎてゆく、そんな辛く単調な毎日の中から素敵なリズムがあって、知的で人の心を引く俳句を書き、そして受賞されたんですもの。MIMIのパパにしか出来ない事だもね。MIMIは、そんなお父さんの娘で本当にうれしく誇りに思います。ありがとうPAPA」(『妻のぬくもり 蘭の紅』から)


※参照 折笠智津子著『妻のぬくもり 蘭の紅』(主婦の友社、1986年)
折笠美秋著『死出の衣は』(富士見書房、1989年)

2017-02-06初出