〇【追悼】金子兜太さん 現代俳句史でんと存在 俳人 坪内稔典
「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」
「どれも口美し晩夏のジャズ一団」
「暗黒や関東平野に火事一つ」
これらは若い日の金子兜太さんの句だが、表現やイメージが大胆で端的、ちまちましていない。
現在でも突出して新しい。
私が兜太さんに出会ったのは20代のころ、彼の著書「今日の俳句」「定型の詩法」などを読み、俳句を同時代の詩としてとらえる見方に共感した。俳句仲間といっしょに上京、勤務先の日本銀行を訪ねたこともある。コーヒーをおごってもらったが、デパートの屋上から飛び降りる覚悟で俳句をやれ、とアジられた。今になって思うと、それは兜太さんの俳句に向かう姿勢だった。
五・七・五の小さな俳句は、その小ささへ俳人を閉じ込めがち。内向きにさせるのだ。兜太さんはその傾向に抗った。自由律や無季の句を認め、俳句史的には傍流の小林一茶や種田山頭火を研究したが、それらは俳句を広げようとする行動だった。
2002年に「金子兜太集」全4巻が出た。この年、兜太さんは83歳だったが、そのころからは、俳句そのものよりも、「金子兜太」という存在の魅力が話題になり、その話題を拡大しながら98歳に至ったように見える。
実は、私は少し困っていた。モーロクしかかったとき、俳人は新しい言葉を得てすごい句を作ることがある、というのが私の仮説だった。だが、兜太さんの言動は明瞭、モーロクの気配がいっこうになかった。
「去年今年生きもの我や尿瓶愛す」
「河馬の坪稔尿瓶のわれやお正月」
右は2010年に発表した句。兜太さんは万物に命を認めるアニミズムを発想の基本にしたが、尿瓶にも命を感じている。次の句の「坪稔(ツボネン)」は私をさす。彼はなぜか私をツボネンと呼んだ。ツボネンの愛する河馬、兜太の愛する尿瓶は同格だ、というのがこの句である。
兜太さんは母校の小学校で授業をした際、尿瓶を持ち込み、小学生にさわらせた。そのようすはテレビで放映された。
「山枯れて女子小学生尿瓶覗く」
「小学生尿瓶透かして枯山見る」
「われの尿瓶を嗅ぎ捨てにして無礼かな」
これらはその日を詠んだ作。小学生と尿瓶を介して命を通わせる兜太さんはすてきだ。もっとも、尿瓶を無視する無礼な子もいたし、眉をひそめた大人もいたのだろう。でも、尿瓶もまた命を持つ自分の同類だという見方を彼は堂々と押し通した。こういう兜太さんは、もしかしたらモーロク的生き物だったのではないか。
「合歓の花君と別れてうろつくよ」は80歳代の作。明治は子規、大正・昭和は虚子、敗戦後から平成の今日までは兜太さんが俳句史にでんと存在した。その兜太さんはときにうろつく人だった。うろつくよ、と率直に言う兜太さん、いいなあ。(寄稿:2018年2月26日 7時32分 産経新聞より)
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〈毎日新聞「余録」:俳人の金子兜太さんは80歳を過ぎてから「立禅」を日課にするようになった。何かというと、亡くなった友人知己、恩師や先輩、肉親の名を次々に心の中で唱えるのだ。思い出も頭の中を断片的によぎっていく▲その数、120~130人、自分の中ではみんな生きているように思える。この立禅を30分近く行うと、その日の暮らしがすっきりと豊かな気分になったという。「死んでも命は別のところで生きている」。そう実感する毎日だった▲代表句の一つ「おおかみに蛍が一つ付いていた」は、ちょうどこんな死者たちへの呼びかけを始めたころの作になる。昔はオオカミがすんでいた郷里・秩父の山々に「いのち」を幻視した句には、「人間に狐ぶつかる春の谷」もある▲かつて自分の3要素は「戦争・戦場体験」「(勤務した)日銀での冷や飯」「俳壇の保守返り(への反発)」と語っていた金子さんだ。その反骨の上にも歳月は降り積もったが、戦争の記憶に根ざす反戦の闘志は終生変わらなかった▲「死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む」。餓死していく戦友から散骨を頼まれたことが何度もあった。当時はごちそうだったたくあんを今かみしめ、その無念に報いるべく自らを励ます。この戦後の初心を抱えたままでの旅立ちだった▲「老いてますます野性化」したとは作家の嵐山光三郎さんの金子さん評という。この世の目に見えぬ死者や生きものと自在に語り合った俳人が赴いたあの世では、今ごろ百数十人の宴がたけなわに違いない。(毎日新聞「余録」2018年2月22日 東京朝刊)