日々彦・詩歌句とともに

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎書評:坪内 稔典『季語集』『正岡子規 言葉と生きる 』

○ 俳句・短歌の実作者であり研究者である坪内氏が、独自に選んだ300の季語についてのミニエッセイ。。

 代表的な季語でも載っていないものがたくさんある一方、「ブルーヘイズ」「鯨来る」「デッキチェア」「サーフボード」「クサギの虫」「赤い河馬」「くすぐりの木」など、ちょっと変わったあるいは著者が。新しい季語として提案しているものがいろいろあり、日本語の持つ深みを感じさせてくれる。9行に収められた作者のその季語に対する思いが、様々な作品を紹介しながら、楽しく書き込まれている。

 はじめの「季語を楽しむ」に次のようなことが書いてある。

《季節は普通、四季(春、夏、秋、冬)と考えるが、古代では民俗学的には農業生活上から二季(正月から盆、盆から正月)があったそうだ。四季は中国から来た新しい区切りで、広く普及するのは平安時代からだとされている。古今和歌集から歌を四季に分け、その四季観は現代にいたるまで基礎的なものとして受け継がれている。四季とは一つのめがねのような見方だ。このめがねを通して自然界が四季に区切られる。

  中世の連歌、江戸時代の俳句の季語、今日の歳時記に至る季語を確立したのは古今和歌集で、この四季の考えを受け入れて時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物などを四季に分類したのが季語で、これは一つの約束である。

 この季語の約束を本意という。言葉の持つイメージを決めるもの。例えば「春風」は「そよそよと優しく吹く」というのが本意。季語の持つイメージを別の言葉と組み合わせるときに微妙な本意のずれを楽しむのが季語の楽しみでもあり、自分の気持ちの新しい表情を表現するのが季語の本意のずれの目的と著者は言う。》

 私たちは自然を、ある言葉や観念・概念を通してはじめて感受できるというのである。自然や宇宙を言葉で表現するのではなく、言葉で自然や宇宙を構築するのである。

 

 ・季語「光の春」では、ロシアを訪問した気象キャスターの倉嶋厚の言葉を紹介している。(ロシア語)ベスナー・スベータは「光の春」の意。「日脚が伸びて空が明るくなり、屋根の雪から最初の水滴が日に輝いて落ちる、それが『光の春』のはじまりだ」(倉嶋厚『暮らしの気象学』)。「春光に触れなんとして乗り換えす」(対馬康子)

・季語「春の土」では、「春は空からそうして土から微(かす)かに動く」(長塚節『土』)の紹介から始まり、漱石はいう。『土』が面白いから読めと娘に勧めるのではない。「苦しいから読めといふのだと告げたい」。「春の土踏むはじめてのベビー靴」(山田弘子)

・季語「春の匂い」では、前年から「一草庵」を結んでいた五九歳の種田山頭火の昭和15年の日記から「天も地も私もうらゝか、(略)まったく春! 障子をあけはなって春を呼吸する」。そして知人と参詣し露店で桜餅を食べた。「うまかった、春の匂ひがする!」

「おちついて死ねさうな草萌ゆる」(山頭火)「腸(はらわた)に春滴るや粥の味」(漱石)

 

・季語「河童忌」では、芥川龍之介(1892―1927/7/24)の忌日を取り上げる。俳号にちなんで「我鬼忌」ともいう。そのエッセイに龍之介婚約中の塚本文宛の手紙が紹介している。「文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします」(関口安義の評伝『芥川龍之介』から)引用句「餓鬼忌は又我誕生日菓子を食ふ」(中村草田男『長子』1936)

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坪内稔典は俳句の本質を「口誦性」と「片言性」にあると捉え、俳論などでしばしば論じている。「口誦性」とは「簡単におぼえてどこででも口にできる」ことであり、「片言性」とは、ことわざなどと同じように短く、言い尽くせないということで、そのことによって却って読み手から多様な解釈を誘い出し、言葉の多義性を豊かに発揮できるのだとする。

俳句の「片言性」は、言葉のもたされる意味(シニフィエ)を多義化し、ふくらませうる揺籃である。鶴見俊輔は、ぼけて断片化した老人の言葉を、もしかしたら俳句は受け止め得る装置かもしれない、と述べている。(『家のなかの広場』一九八二年)

これらの句から坪内稔典などがいう、俳句のもつ「片言性」を思った。

「片言性」とは、断片的で短く、言い尽くせないということで、そのことによって却って読み手から多様な解釈を誘い出し、言葉の多義性を豊かに発揮できるのだとする。

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○坪内 稔典『正岡子規 言葉と生きる 』(岩波新書、2010)

幕末に生れた子規は明治という時代と共に成長する。彼は俳句・短歌・文章という三つの面で文学上の革新を起こし、後世に大きな影響を与えた。子規の言葉は新しくなろうとする近代日本の言葉でもあった。そのみずみずしい文章を紹介しながら、34年という短い人生を濃く生きぬいた子規の生涯を生きいきと描きだす。

・空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず空想に偏僻し写実に拘泥する者は固(もと)より其至る者に非るなり (「俳諧大要」)

・彼の死に至るまで献身的に看護した妹律を「同感同情ノ無キ木石ノ如キ女也」と悪態をつく「仰臥漫録」中の一文も紹介されている。

・ 二十歳をすぎ、当時死病とされた肺結核による突然の喀血(かっけつ)が、「余命十年」という覚悟につながり、読むこと、描くことへと、さらにのめり込む。と、同時に、その眼差(まなざ)しは、天下国家から、身の回りの野の草花や小動物のいとしさに向かい始め、写生という文学上の方法を引き寄せ始める。 様々な「相貌」が一つになり、晩年、東京の狭い子規庵(あん)で、不自由な身を時に嘆くも、ユーモアを忘れず、多くの知人に囲まれながら食べに食べ、書きに書く子規が生まれた。

 短い章立ての冒頭に、必ず子規自身の「文章」を置き、最終章は、表に出ることなく陰で彼を支え続けた母の臨終の場の一言で終わる。終始、著者の筆は柔らかい。子規を知る格好な評伝であるにとどまらず、「憂さ晴らし」という考えを文章観の根っこにみる著者の子規論へのヒントもまた、魅力的だ。好書好日

○【美育】精選版 日本国語大辞典

〘名〙 芸術的教育の総称。美の鑑賞と創造を通して、望ましい人間形成をはかるための教育。知育、徳育とともに教育上の重要な内容を形成する領域。美的教育。

※病牀譫語(1899)〈正岡子規〉三「美育は美的感情を発達せしむるなり。(美を造る技術即ち技育に非ず)」

・病牀譫語(三)◎我に二頃けいの田あらば、麦青く風暖き処、退いて少年を教育するもまた面白からんと思ふ。教育には智育、技育、徳育、美育、気育、体育あり。その中にて最大切にしてまた最効力著いちじるしきは智育なり。されど智育は現今の学校制度ほぼこれを尽す。技育は多く専門の修行に属し、しかもその薀奥うんおうに至りては教育以上にあり。美術の如き美文の如き殊に然りとす。こは必ずしも我関せざる所なり。我主として試みんとするは徳育、美育、気育、体育にあり。

・せんつばや野分のあとの花白し せんつば・草花の花壇 明治29年・前書きがあります。

「松山にて庭の隅に二三尺の地を限りて木の苗を植ゑ人形など竝て子兒の戯とす之をせんつばといふ」子規はこの「せんつば」が大好きだった。足腰が立たなくなり自由に歩く回ることが出来なくなり、幼い時から草花が好きだった自分を思い出します。病気にならなかったら「花は我世界にして草花は我命なり」と言わなかったかも知れません。

子規の「せんつば」 箱庭作り)への強い嗜好が取り上げら. れている。この趣味は幼少時に端を発し、子規の美育に大きく貢. 献たとされ、かたちを変え生涯を通して

子規にとって俳句とは一種の治癒力を持つ「鉛. 筆と手帳で作るせんつば」であるという ...