四季折々(日々彦・詩歌の記録)

主に俳句、付随して詩歌などの記録

◎俳文「二月の色」

〇俳文「二月の色」 

 総じて二月は色の乏しい季節で、その中で、居宅の近くにある山茶花、錦木、水仙は、寒さに強く丈夫で長い期間にわたって楽しませてくれている。

 

 山茶花は2月に入ってからは徐々に涸れてきた。盛りの時は赤い花、白い花が、咲いたかと思うとすぐに散りはじめ、散ったかと思うとすぐに次々と咲きはじめていたが、今ではほんのわずかに赤い花が目に入るぐらいだ。

 

 錦木(おそらくそうだと思っている)は、家の近くのいつも通るマンションの生垣にぐるりといけられていて、これほど身近に触れるのは神戸に来て以来で、その紅葉はとても目立っていて、周りの風景全体に趣を醸し出している。2月末になり少し赤さが薄れてきているがなかなか衰えを感じさせない。

 

 日本水仙は群がっていて、涸れるのもあるが次々に花をつけていて、全体としては今からが盛りともいえそうな雰囲気もある。

 

 正岡子規の随筆『赤』の花々について書いた文章がある。
「美しい現象の最要素は色である。色は百種も千種もあるけれど、概して天然界の色はつややかにうつくしく、空の緑、葉の緑、花の紅白紫黄の明るく愉快なるに反して、人間界の色はくすんで曇って居る。人間の製造した衣服、住居、器具などは皆暗く寒い色であって、何だか罪悪を包蔵して居るやうに思われる。併し天然の色でも其中で最も必要なのは赤である。赤色の無い天然の色は如何に美しくも活動する事が無い。」

 

 この時点での子規の見方はそれとして、たしかに天然界の奏でる色と人間界が作り出す色は、根本的に異なるような気がする。


 色が大きな比重をしめるだろう絵画の専門家でも、その人独自の色の世界を作り出すことに研究を重ねるだろうし、器具を用いることによる、より写実的であろう写真や映画でも、デジタル化などにより、ある種の限界を抱えながら様々な工夫を重ねているだろう。いいとか悪いとか、現実的であるとかそうでないとかの判断はつけられないが、決定的に違うと思う。

 

 わたしが感じるのは、天然界のもの特に花々のなかには、そのもののなかに、生き生きとしたつややかさを宿しているものが、辺りのものと溶け合って独特のものを醸し出しているのではないか。

 

 それに対して、人間界の作り出すものは、たとえ精巧な器具を用いたとしても、どこまでも人為的なものがかかわり作り出す色で、一葉の絵柄に収められるものではないのだろう。花々に限らず、海に差し込む光、澄み切った空に漂う雲、草木、あるいは人の顔色や犬の姿など、ハッとするような出会いがあったときに、そのようなことを感じる。

 

 ※坪内稔典は、〈子規の随筆「赤」「吾幼時の美感」「啼血始末」を引きながら、これらに通底する子規の赤色に対する執着を指摘し、次のように述べる。

 子規が好きだという赤色は、以上のように見てくると、子規の〝生の深処〟と重なってくる。天然の赤色、草花の赤色は、暗い、澱んだ赤色を背後に持っていたのである。写生に執着し、天然の世界へ視線を広げることで、子規は自らのかかえている暗い深処に耐えていた。〉

(「鶏頭の句」(『正岡子規』俳句研究社、1976より) 

※初出2017-02-28