日々彦・詩歌句とともに

主に俳句、付随して詩歌などの記録

長谷川櫂「新しい一茶」

〇私が俳句をつくりはじめたのは、10年以上前に病院併設型の養護学校に関わっているときである。Kさんという年配の生徒さんが作った俳句クラブで学校の文化祭などに発表していた。生徒たちは、短い詩の形で、感じたことなどを発信できることもあり楽しんでいたようだ。それらのことがきっかけになり私も俳句をつくるようになる。

 それ以来、趣味として気ままに作っていた。俳句関連の本なども読んで、最近になって、その奥深さや面白さに関心を持ち始めている。

 

 現在もっとも大衆化した文芸である俳句は、芭蕉を嚆矢とする、17音に自分の「生」を賭ける人から、趣味として気軽に遊び心でつくる人まで幅広くすそ野が広がっている。

 突出した先端部分があり、手軽な詠み手のすそ野の広がりが、俳句世界の大衆性を獲得しているのだろう。どちらも大事にしたいなとは思っている。

 

 池澤夏樹『日本文学全集』12巻は、芭蕉」・蕪村・一茶など俳詩人の特集だ。その中の長谷川櫂「新しい一茶」は俳句について考えたくなる内容が備わっていて、自分なりにまとめておこうと思う。

 

 巻末の「選訳者あとがき」の「近代俳句は一茶から始まる」で、長谷川櫂が要点をまとめているので、かいつまんであげてみる。

・芭蕉が生きた江戸時代前半は、長い内乱で滅んだ古典文化を志した時代で、和歌の時代からの古典に精通した芭蕉は、その精神の上に、新たな可能性を切り開いた古典主義の大俳人だった。

・蕪村も芭蕉同様、」古典主義の俳人だった。古典を知らなければ、蕪村の俳句は味わえない。

・簡単な言葉で素直な心情を詠んだ一茶の俳句を起点として、近代俳句の枠組みは立て直されるだろう。そうしないかぎり、文化の大衆化とともに生まれ、大衆化が極まることによって拡散し破綻してゆく近代俳句の全容はみえてこない。

・日本の近代は江戸時代半ばの、貨幣経済の浸透により庶民が文化や芸事に手を染め始め、大衆文化の花が開いた徳川家斉の大御所時代(1787-1841)に始まっていた。

 それは、西洋の近代の幕開けを告げたアメリカ独立戦争(1775-83)、フランス革命(1789-99)と同時代である。

・明治維新は近代の過程で生まれたもので、正岡子規(1867-1902)は近代俳句の中間点に位置し、その後継者・高浜虚子は俳句大衆を束ねる方式の完成者としてみる。だが、その弊害もあるのではないかとしている。

・昭和戦争の敗戦で、明治体制の崩壊とともに大衆化が極度に進み、俳句もすでに次の時代を迎えている。

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 何をもって近代、近代社会とするかは、何を基準にするかにより随分違ってくる。

 わたしは、形態は様々だが「個人を社会構成の基本にしよう」というものが芽生え始め、特殊な選ばれた人だけでなく、大衆文化の花が開いたときを、近代化の始まりと捉えているので、俳句の近代化は一茶から始まるというのは卓見だと思っている。

 これまでも金子兜太など一茶に随分と注目している人もいるが、そこから俳句史そのものを見直そうとする意欲ある論考だと思う。

 

 長谷川氏は、NHK「一茶の再評価」(視点・論点)などで、次のように述べている

「簡単な言葉で素直な心情を詠んだ一茶の俳句は、最初の近代俳句といってよいのではないか。誰にでもわかるということと個人の心理描写は近代文学の大きな特徴です。この二つの特徴を備えた一茶の俳句は最初の近代俳句ということができます。一茶は江戸時代後半に出現していた日本の近代大衆社会の一市民でした。まさに「ちょんまげを結った近代市民」でした。そして最初の近代俳人でした。」と述べている。

 

 論考の中で、一茶の特質をとらえたと思える箇所に私見も交えて簡潔にあげてみる。

 ・山寺や雪の底なる鐘の声 『霞の碑』1790年 28歳

 3歳で母を14歳で祖母を亡くし、長男であるにもかかわらず15歳で奉公に出される。25歳で俳諧師を志す。30歳まですごす江戸修業時代末期の句。

・時鳥我身ばかりに降雨か 『寛政三年紀行』1791年 29歳

 14年ぶりに北信濃に帰る。郷里では父と継母と腹違いの弟が待ちうけていた。            

・しづかさや湖水の底の雲の峰 『寛政句帖』1792年 30歳

 30~36歳の関西、四国、肥後にまで及ぶ西国行脚のときの句。当時一流の俳諧師と交わり、貪欲な勉強家一茶は様々な刺激を受ける。「視覚的で平明であることは一茶の句の特色」(櫂)

・天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ 『西国紀行』1795年 33歳

「人間という言葉を使った江戸時代の俳句はまれ。現代俳句と並べても斬新な句」(櫂)。

 二年前に、「雲に鳥人間海にあそぶ日ぞ」と詠んでいる。同じような句や推敲してそのまま載せている句も多い

 

・父ありて明ぼの見たし青田原 『父の終焉日記』1801年 39歳

 父(享年65歳)の初七日の句。父は一茶にとって心の通うただ一人の家族だった。この後、遺産の分割相続を望むが、継母、弟との遺産相続争いが始まる。51歳のときに決着する。

・我星はどこに旅寝や天の川 『享和句帖』1803年 41歳

 この時、妻も子も家もなく、江戸では浮き草暮らしであった。「全句集の索引を引けば、『我』ではじまる句が延々と並ぶ。---一茶はつねに自分を意識している」(櫂)。

・初雪や古郷見ゆる壁の穴『文化句帖』1804年 42歳

 望郷の一句。江戸に初雪が舞う、あばら屋の壁の穴から故郷の雪景色を思う。

・心からしなのゝ雪に降られけり)『文化句帖』1807年 45歳

「遺産交渉の埒が明かず、家からさまよい出た一茶の上に雪が降りつづける」(櫂)。

 

・是がまあつひの栖か雪五尺 『七番日記』1812年 50歳

 帰郷の感慨。弟と和解し、父の遺産の半分が一茶のものになるのは翌年1月。

・雪とけて村いっぱいの子ども哉 『七番日記』1812年 50歳 

 子どもにも誰にでもわかり、解放させた気分が生じる俳句というのは素晴らしいことだ。

・蚤蠅にあなどられつゝけふも暮ぬ 『志多良』1813年 51歳

 尻の腫物で寝こんでいた。その間も門人たちと徹夜で歌仙を巻いたりしている、その発句。「俳諧は笑いの詩だから一茶はあはれな自分を笑う。たくましい俳句精神である」(櫂)。

 

・あっさりと春は来にけり浅黄空 『七番日記』1814年 51歳

 さんざんな目にあった去年が明けての新春詠。2月に田畑についで屋敷を弟と折半。4月に遠縁の28歳の娘きくと初婚。男が一家を構えた以上、嫁を貰はなければならなかった。

・たのもしやてんつるてんの初袷 『七番日記』1816年 53歳

 4月に長男千太郎生まれる。「子どもの初袷がつんつるてんになるくらいすくすくと育ってほしいという親の願い」(櫂)。だが、ひと月もたたない5月に、みまかってしまう。

・おとろへや花を折にも口曲る 『七番日記』1817年 54歳

 1811年「歯一本欠ける」とあり、すでに一本の歯もなかった。歯が一本もないので花を折るにも口もとが歪んでしまう。「老残の自分自身への一茶の目は非情である」(櫂)。

 

・目出度さもちう也おらが春 『おらが春』1819年 56歳

 千太郎を亡くしたが、今年は昨年生まれた長女さととともにいる。家も妻子もいる。「人生は願ったほどよくもないが、恐れるほど悪くない。それが句の「ちう位」だろう」(櫂)。

・蟻の道雲の峰よりつゞきけん 『おらが春』1819年 57歳

「これほど雄大かつのびのびと蟻の行列を詠んだ句は一茶の前にも後にも見当たらない」(櫂)。

・大蛍ゆらりゆらりと通りけり 『八番日記』1819年 57歳

「古典文学の知識などない子どもにもわかる、もちろん大人にもわかる。誰にでもわかるということは、一茶が大衆化の時代の俳人であった何よりの証しだろう」(櫂)。

 

・露の世は露の世ながらさりながら 『おらが春』1819年 58歳

 三年前の千太郎についで、満一歳の長女さとを疱瘡で亡くす。無常の世であり、人の世も何があろうとも受けるしかないけれど、「そうはいってみても」と複雑な思い。

・ともかくもあなた任せのとしの暮 『おらが春』1819年 58歳

「一茶の句のよさを一言でいえば、のびやかさである」(櫂)。「ともかくも」とは幼いさとを失ったものの。『おらが春』の最後に置かれた句。

・春立や愚の上に又愚にかえる 『文政句帖』1823年 61歳

 60歳のとき詠んだ「まん六の春と成りけり門の雪」の添え書に、次のように述べている。

「御仏は暁の星の光に四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれのごとき、五十九が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さへたのむ程のちからなく、たまたま非を改らためんとすれば、暗々然として盲の書をよみ、あしなえの踊らんとするに等しく、ますますまよひにまよひを重ねぬ。げにげに諺にいふ通り、愚につける薬もあらざれば、なを行末も愚にして、愚のかはらぬ世をへることをねがふのみ」。一茶は浄土真宗の門徒。

 

・もともとの一人前ぞ雑煮膳 『文政句帖』1823年 62歳

 前年、妻きくと三男金三郎を相次いで失った。二男石太郎は1821年に一歳で亡くす。「わが子を四人とも亡くしたとはいっても、十年前、きくと結婚する前は一人だったではないか。------もとの姿に返っただけのこと」(櫂)。

・花の陰寝まじ未来が恐しき 『文政十年句帖写』1827年 64歳

 1824年5月、飯山藩士の娘ゆき(38歳)と再婚。八月離縁。閏8月に中風(脳血管障害)が再発、言語不自由になる。1825年十二月、家政婦を雇う。1826年8月、柏原の商家の乳母やお(32歳)と三度目の結婚。やおの二歳の男の子も同居。

 前書きに、「耕さずして喰ひ、織ずして着る体たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」とある。ここでの未来は来世という仏教用語。西行は花の下で死なむと願ったが、おれは来世なんか怖くて花の下でうっかりと寝てはいられないとの意。

・やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ 『書簡』1827年 65歳

 閏6月、柏原で大火。「つひの栖」と詠んだ家も消失。妻やおとその子と三人、焼け残った土蔵で暮らすことになる。「俳句は嘆きも笑いに変える」(櫂)。一茶は11月に亡くなる。

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