※3年前に富弘美術館に行く。富弘美術館は星野富弘の故郷、群馬県みどり市東町にあり、美しい山々と湖、豊かな緑につつまれ道の駅にもなっていて、地方の静かな里のオアシスになっている。館内および周りの風景そのものが、優しく香り立つような「花の詩画」に相応しい美術館だ。
特別展「春うらら」では、約80点展示され、様々な花の画に心に沁み込む言葉が添えられ、人となりを伝えるエッセイなどが紹介されてあり、いつまでも見惚れていた。
星野富弘24歳の時、中学校の体育教師をしていたクラブ活動の指導中、頚髄を損傷し手足の自由を失う。病院に入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始める。その後国内外で「花の詩画展」を開く。
ここに花の詩と印象的な言葉を備忘録として記録する。
〇花の詩(詩画として描いたものの詩)
・さくら
車椅子を押してもらって 桜の木の下まで行く
友人が枝を曲げると 私は満開の花の中に 埋ってしまった
湧きあってくる感動を おさえることができず 私は
口の周りに咲いていた 桜の花を むしゃむしゃと 食べてしまった
・なのはな
私の首のように 茎が簡単に折れてしまった
しかし菜の花はそこから芽を出し 花を咲かせた
私もこの花と 同じ水を飲んでいる 同じ光を 受けている
強い茎になろう
・しょうぶ
黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ きれいに咲けるのだろう
私は 大ぜいの人の愛の中にいて なぜ みにくいことばかり考えるのだろう
・チューリップ
チューリップなんて いっぱいあるから チューリップなんて 安いから
チューリップなんて 空っぽだから チューリップなんて はなの下が長いから
チューリップなんて 大好きです
・もくれん
きりっとしているのは 最初の頃だけ あとは色あせ うなだれ
風の吹くまま けれど 木蓮がすき どことなく私の心に似て
それが 青空の中に咲いている
・ゆきやなぎ
花びらが流れる 波にゆられ 岩をこえて 家族のように身を寄せ
浮いたり沈んだり あの一列は遠足 あの団体は農協 ひとつだけで寂しげなのは
私の心か 汚れれば汚れるほど 美しい川を行きたい 一度かぎりの旅 花びらが流れる
・たんぽぽ
いつだったか きみたちが空をとんで行くのを見たよ
風に吹かれて ただ一つのものを持って 旅する姿が
うれしくてならなかったよ 人間にとってどうしても必要なものは
ただ一つ 私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ
・つばき
木は自分で 動きまわることができない 神様に与えられた その場所で
精一杯枝を張り 許された高さまで 一生懸命 伸びようとしている
そんな木を 私は友達のように思っている
・きく
よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする
・日日草
今日も一つ悲しいことがあった 今日もまた一つうれしいことがあった
笑ったり泣いたり 望んだりあきらめたり にくんだり愛したり
・・・・・・・・
そしてこれらの一つ一つを 柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の平凡なことがあった
〇ことの葉
・車椅子を押してもらって/さくらの木の下まで行く
友人が枝を曲げると/私は満開の花の中に埋まってしまった
湧き上がってくる感動をおさえることができず
私は/口のまわりに咲いていたさくらの花を/むしゃむしゃと食べてしまった
・夜があるから朝がまぶしいように、失った時初めてその価値に気づくことがあります。何気なく動かしていた指、当たり前のように歩いた足…。しかし目に見えるものよりも、もっともっと大切なものがありました。もしかしたら、失うということと、与えられるということは、隣同士なのかも知れない
・動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ 私のように動けない者が 動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか そう気づいた時 私の体をギリギリに縛りつけていた 「忍耐」という棘のはえた縄が “フッ“と解けたような気がした
・木は自分で動き回る事が出来ない。神さまに与えられたその場所で精一杯に枝を張り、許された高さまで一生懸命伸びようとしている。そんな木を私は友達のように思っている
・いのちが一番大切だと 思っていたころ、 生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがある と知った日、 生きているのが嬉しかった。
・よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする
・「見ているだけで 何も描けずに一日が終わった そういう日と
大きな事をやりとげた日と 同じ価値を見いだせる 心になりたい
・暗く長い 土の中の時代があった。 いのちがけで 芽生えた時もあった。 しかし草は、そういった昔をひとことも語らず、 もっとも美しい今だけを見せている。
・冬があり夏があり 昼と夜があり 晴れた日と 雨の日があって
ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく
・長い入院生活中、生まれてこなければよかった、
生きる希望なんてない、死にたいと何度も思いました。
眠っている間に 心臓が止まってくれないかな、死ねないかな、と。
でも無理でした。 食事を抜くと腹が減って、次の食事を腹一杯食べてしまう。
いくら生きるのをやめよう と絶望しても、
体の器官は、 自分の役割を一生懸命果たしている。
自分を生かしてくれる 「いのち」の力に気づきました。
自分がいのちをコントロールしている と思うのは錯覚で、
もっと大きな力が私を生かしてくれる。
〇エッセイ、星野富弘『愛、深き淵』より
私は自分の足で歩いている頃、車椅子のひとを見て気の毒に思った。みてはいけないものをみてしまったような気持ちになったこともあった。私はなんと、ひとりよがりな高慢な気持ちを持っていたのだろう。
車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもうれしいというのに、初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて初めて曲がれたときのような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった時のような・・・・・・。
でも今、廊下を歩きながら私を横目でみていった人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのをたぶん知らないだろう。
健康な時の私のように、哀れみの目で、車椅子の私をみて通ったのではないだろうか。
幸せってなんだろう。
喜びってなんだろう。
ほんの少しだけわかったような気がした。
それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な事態の中にもあるということが。
そしてそれは、一般に不幸といわれているいるような事態の中でも決して小さくなったりはしないということが。
病気やけがは、本来、幸、不幸の性格はもっていないのではないだろうか。
病気やけがに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだろうか。
・車椅子を押してもらって
さくらの木の下まで行く
友人が枝を曲げると
私は満開の花の中に埋まってしまった
湧き上がってくる感動をおさえることができず
私は
口のまわりに咲いていたさくらの花を
むしゃむしゃと食べてしまった
(星野富弘『新版 愛、深き淵より』立風書房、2000年)
2020-01-27初出